本記事では美術商ジャンフランコ・ベッキーナとそのコネクションに含まれるマフィアたちについてできるだけ詳細に解説します。彼は大規模な密売組織の一員であり、かつイタリアで悪名を轟かせたマフィア「コーザノストラ」とも密接な関りを持つ重要人物です。いきなりこの人の記事を書くのはその規模を考えると気が引けましたが、書くことにしました。
なお本記事の情報元の一部にイタリア語文章が含まれています。筆者はイタリア語に明るくないため、情報の詳細部分となると本来あいまいな表現をすべきところもありますが、読みやすさを優先し断定的な記述としたことをご理解ください。
ジャンフランコ・ベッキーナについて
ジャンフランコ・ベッキーナ(Gianfranco BecchinaまたはGiovanni Franco Becchina)はシチリア島西部のカステルヴェトラーノに生まれた。幼い頃から芸術を愛し、優秀な目利きでもあった。
彼は多くの美術品を有名な美術館に販売している。例えばアシュモラン美術館、ルーヴル美術館、ボストン美術館、メトロポリタン美術館、プリンストン大学美術館、トレド美術館、J.ポール・ゲティ美術館。さらにサザビーズやクリスティーズといった大手オークションハウスに品物を出品していた。
ベッキーナは極めて優秀な美術商かつ事業家である。彼が投資し、世界中に広めたカステルヴェトラーノ産オリーブオイルを愛用する人もいるはずだ。人々やマスコミは彼が買い取った城の邸宅に並ぶ骨董品やオリーブ畑に酔いしれた。
ベッキーナが一部を所有する城。引用元:castelvetranonews
しかしその裏の顔は盗品の出処を隠して売りさばく違法売買組織の重鎮、そしてシチリア・マフィアの協力者でもあった。
ベッキーナが初めて危険な仕事に手を出したのは1964年、25歳の時だった。イタリア、ベルガモ市にて車のトランクに考古学的価値のあるアイテムを積んでいたのを警察に見つかったのだった。
テラコッタ壺、女性の頭部の塑像、ブロンズ製の戦士像。ベッキーナはあくまでローマの市場で購入した物だと主張し、この件はそれ以上追求されなかった。
1970年代にはスイスのバーゼルに移りホテルで働いた。その後妻と一緒にギャラリー「Palladion Antique Kunst」を開き、美術品を扱うようになった。1980年代初頭にはバーゼルのギャラリーを妻に任せ、自らはカステルヴェトラーノに戻り様々な事業を展開していった。
1981年には古代ギリシャの壺を200億リラで美術館に売っている。しかしこの壺は出処の怪しいものであり、彼の代表的な「仕事」として有名である。
もっとも、ベッキーナの正体が明らかとなったのは1995年以降のことである。1人の男の死が、偶然にもベッキーナ含む密売組織の存在を暴いたのだった。
密売組織「コルダータ」
1995年8月に起きた交通事故。ガードレールに激突し大破したルノーの中で、パスクアーレ・カメラ(Pasquale Camera)は死亡した。イタリアの捜査官は元々彼を調べていたため、この事故は不謹慎な表現を許されるなら、一部の人間にとっては吉報だったことだろう。
車内からはイタリア最大級の古美術密売ネットワークの構造や数々の違法発掘物の写真が見つかり、すでにパスクアーレ・カメラを疑っていた捜査官の考えが正しかったことが立証された。ちなみにカメラは元Guardia di Finanza(イタリアの法執行機関)の警部でもある。
後日、ネットワークの協力者の家宅捜索で、カラビニエリ(イタリア軍警察)はパスクアーレ・カメラ手書きの「組織図」を発見した。押収した組織図からは、アメリカの古物商ロバート・ヘクト(Robert Hecht)をトップに2つのリンクが存在することがわかった。
1つはジャコモ・メディチ(Giacomo Medici)率いるリンク、もう1つがベッキーナ率いるリンクだった。彼らの組織は明確なヒエラルキーをなしている。ベッキーナの仕事といえば、南イタリアで手に入れた盗掘品をスイスの妻に送り、修復&身元の偽造を施して世界中に売ることだった。
リンクのメンバー達は自分たちを「コルダータ」(ロープでつながれた登山家)と呼んでいた。
ロバート・ヘクトへの重要な供給者であることが判明したベッキーナはいくつもの捜査を受けた。2002年にはバーゼルの倉庫とギャラリーから13.000点の書類、8.000点の疑わしいアイテムの写真、6.315点の美術品が押収された。これらは「ベッキーナ・アーカイブ」と呼ばれ、多くのオークションの出品物や美術館の展示品と照合され、出品取り下げまたは返還されるためのキーとなっている。
以降、ベッキーナは法執行機関に強烈に注目されることとなった。
ベッキーナとマフィアの関係
ベッキーナが決して優良な美術商ではないことは、1990年代から囁かれていた。
1992年、ロザリオ・スパートラ(Rosario Spatola)とヴィンチェンツォ・カルカラ(Vincenzo Calcara)は、ベッキーナとイタリア・マフィア「コーザノストラ」との繋がりを告発した。告発した2人は元マフィアであり、逮捕されてから改心して司法への協力者となった者である。さらに同じくマフィアであるジュゼッペ・グリゴーリ(Giuseppe Grigoli)は2人の証言を支持した上で、「ベッキーナは逃亡者メッシーナ・デナロへの封筒を私に手渡した」とも言っている。封筒には金が詰まっていた。
マッテオ・メッシーナ・デナロ(Matteo Messina Denaro)とは、現在も逃亡を続けているコーザノストラの大ボスである。彼は自らを評してこう言った。「私1人で墓地を埋めつくした」。
ベッキーナが密売したアイテムのほとんどはギリシャの古代遺跡セリヌンテからの盗品であり、これは初めはメッシーナ・デナロの亡き父が、そして後にメッシーナ・デナロ本人が監督したビジネスであった。
元々メッシーナ・デナロは美術品に強い興味があったという。しかしそれは純粋な美的好奇心などではなく、あくまで取引の道具や資金獲得の手段としてだった。
2004年のマフィア改心者の告発から、メッシーナ・デナロが首謀者である美術品の盗難計画にもベッキーナが関わっていたことが分かった。狙われたのは有名な「マザラ・デル・ヴァロの踊るサテュロス」。紀元前4世紀の作品で、日本でも2005年に愛知万博や国立博物館で展示された。ファンにしてみれば記憶に新しいかもしれない。
踊るサテュロス。引用元:Città di Mazara del Vallo
像はせいぜい数人の市警に守られているだけということで標的にされたのだが、行き交う人があまりに多く逃走が困難との理由でこの計画は失敗に終わった。
メッシーナ・デナロは時に美術品の破壊も行った。
例えば1993年のウフィツィ美術館の爆破。100kgの爆薬を積んだフィアット車が爆発して6人が死亡し、バルトロメオ・マンフレディの作品2点とゲラルド・デレ・ノッティの作品1点の計3点の絵画が破壊された。1993年といえば当時のコーザノストラのボス、トト・リィナが逮捕された年で、コーザノストラの怒りの矛先が政府に向きテロリズムに走り出した年である。
スパートラとカルカラの証言は、ベッキーナがマフィアと懇意にしているという情報だけではない。スイスにギャング集団がおり、古代の遺物を発掘してブラックマーケットにて販売する役割があることを意味してもいた。
もはやベッキーナは悪徳美術商に留まらない人物となっていた。
ベッキーナは政治にも食い込んだ。2001年、カラビニエリによる盗聴によってサント・サッコ(Santo Sacco)議員との関係や選挙の票操作への関与も疑われている。サッコはカステルヴェトラーノ議員で後にマフィアとの関係で判決を受けている人物である。会話の中でベッキーナは下院議員に立候補したジュゼッペ・マリネッロ(Giuseppe Marinello)の支援として票操作に関与したことを暗に語っていた。マリネッロは、ベッキーナによる収集品の博物館設立の計画を支援していたこともあり、利害の一致が成立していた。
一方サッコはルドビコ・コッラオの選挙活動に関わっていたことを自慢げに話していた。なお、2011年にコッラオはバングラデシュ人の使用人によって殺害されている。使用人は精神薄弱を理由に無罪となり、精神科に移送された。
このエピソードは政治にまで食い込もうとしたベッキーナの影響力を表すものと言える。もっとも、イタリア、特にシチリアでは20世紀からマフィアによる票操作が盛んに行われた土地である。「マフィアによる政治の支配」とまでは言えなくとも、マフィアの助力を受け当選した議員が便宜を図ることは常に行われていた。ただし現在ではマフィアの力はかなり弱まっていると見られる。
美術品の話に戻る。
2000年以降、ベッキーナによるアイテムの資料集であるベッキーナ・アーカイブを手に入れた司法機関は次々にオークションに出品されているアイテムとアーカイブを照らし合わせ、出品を取り下げさせた。その数は膨大であり、近年も度々トラブルが起きている。
出処の怪しいアイテムに対するオークションハウスの態度はあまり熱心ではないようで、かわりに民間団体や考古学者等が精力的に犯罪者のアーカイブと照らし合わせて特定している面もあり温度差がある。
直近では2020年、クリスティーズが出品した彫刻を考古学者が調べたところ、Tullioという盗掘者からベッキーナに渡ったものであると判明した。
学者達の「しっかり所持者記録を調査してくれ!」という嘆きも度々目にする。ただ、古美術は多くのコレクターの間を旅する物でもある。誰から誰へ販売したという記録を残すのが原則ではあるが、犯罪者が正直に記録を残すとは限らない。そのため犯罪収益の洗浄にも古美術はよく利用されてしまう。
さて、数多くの不正を働いたベッキーナ。彼はどのような処罰を受けたのだろうか。
残念ながら犯した罪のほとんどは2000年に時効を迎え、彼は自由の身である。
大きな打撃は、2017年11月15日に行われた大規模な資産はく奪であった。予防措置裁判所の命令で、ベッキーナ所有のビジネス(セメント貿易事業「Atlas Cements Ltd.」、オリーブオイル会社「Olio Verde srl.」、冷凍ピザ製造業「Demetra srl.」、「Becchina & Company srl.」)、土地、銀行口座、車、中世の城の一部を含む総額数百万ユーロの財産が没収された。
この出来事はベッキーナとマフィアのボス、メッシーナ・デナロの関係についての捜査の一環であった。罪が確定したことによる処罰というより、犯罪証拠品である可能性が高いため没収したという意味合いのようである。
この日の朝、城の一部であるベッキーナ所有の棟で謎の火災が起きた。事件に関する書類を燃やしたのではないかと考えられている。
さらにもう1つ、ベッキーナは痛い「警告」を受けた。
2012年1月、何者かがベッキーナの家のドアにショットガンを放ち、花束を置いて行った。明らかにマフィアによるメッセージである。この件はメッシーナ・デナロ自身による支払い不履行へのツケであったと判明している。
殺人への関与の疑惑
トラーパニの副検事、チャッチョ・モンタルトは1983年1月25日に命を落とした。短機関銃と38口径のピストルで武装した男達に襲撃されたのだった。
モンタルト副検事の事件の背後に、ベッキーナがいたという疑惑もある。本文で既に登場した改心者ロザリオ・スパートラの証言によると、ベッキーナは弟を経由してマリアーノ・アサロというマフィアに武器を提供したという。
しかし法廷では副検事殺害の意図で武器を提供したとは言い切れないとされた。武器の提供自体は事実である。
あとがき
ベッキーナにとって最大に好意的な解釈をするなら、マフィアと利害関係を持った時点で足を洗えなくなったのではないかと思います。1990年代末に「もう美術品に関わることはない」とメディアに答えていたようですが、少なくとも別の形での関与を強いられることでしょう。
多くの国、多くの人とコネクションを築いたマフィア関係者は、少しのミスで消されかねません。世界中を飛び回り金融機関を利用して金を貪ったミケーレ・シンドーナの最期が思い浮かびます。もっともシンドーナは恐喝も駆使して大勢の秘密を握っていたので、彼の永遠の沈黙を願う人が多かったのも事実ではありますが……
ベッキーナの場合はどうなるのでしょうか。メッシーナ・デナロが行方をくらましている以上、重要なマフィア側からの視点は少ないのが現状です。
マフィアとのパワーバランスは語るまでもなく、ショットガンと花束が代弁しているのでしょう。
以下参考文献です。
https://ilvolatore.it/becchina-story-1-il-mercante-darte-e-gli-interessi-della-mafia/
https://ilvolatore.it/becchina-story-2-il-ritorno-a-castelvetrano-e-le-parole-dei-pentiti/
https://giannicipriano.photoshelter.com/image/I0000v_RjVvFnxJE
・密売組織「コルダータ」
https://traffickingculture.org/encyclopedia/case-studies/operation-geryon/
https://art-crime.blogspot.com/2015/04/sir-how-much-is-that-2nd-century-bce.html
https://news.artnet.com/art-world/58-million-trove-of-looted-antiquities-uncovered-in-raid-229301
・ベッキーナとマフィアの関係
http://www.italianinsider.it/?q=node/6097
https://art-crime.blogspot.com/2017/11/a-sicilian-mafia-primer-to-organized.html
・殺人への関与の疑惑
https://ilvolatore.it/becchina-story-2-il-ritorno-a-castelvetrano-e-le-parole-dei-pentiti/