ベルト・モリゾ『夏の日(Jour d'Eté)』(1879)
この事件は一部メディアでは被害者なき犯罪とも言われています。
モリゾの絵を盗んだ犯人は、私利私欲に溺れた訳ではありませんでした。
学生の思想
1956年、ロンドンのテート美術館にて。
美大生ポール・ホーガンと、獣医学生のビリー・フォガティは、館内で下見を繰り返していた。
絵にセンサーはない。警備員の不在時間を知るだけでよかった。
計画は極めて単純。絵をエントランスまで持ち出すことだ。
服に隠したり、密輸する必要はない。売るつもりもない。
絵を抱えてエントランスに向かい、そこで「止まれ」と言ってきた守衛と殴り合う。その様子を、待機させたカメラマンに撮影してもらうだけでよかった。
2人の目的は絵の所有権の主張である。
当時、テート美術館の数点の絵は、アイルランドとの間で所有権を争われていた。
2人の学生は、それはアイルランドにあるべきだと考えた。そう思うに足りる理由もあった。
政府間で論争が交わされているが、進展はない。
もう腰抜けな政府に任せていられない。ならば自分たちが社会に強烈なメッセージを放ち、現状を変えてやろう、というところである。
1956年4月14日、計画実行の日。
狙いはベルト・モリゾの『夏の日』だった。
2人は警備員がティータイムに行った隙をみて、モリゾの絵を抱えてエントランスへ向かう。
ところが守衛に止められることなく、容易に外へ出ることができてしまった。
予想外の事態だ。
とりあえず、ホーガンが絵を抱えて美術館を離れることにした。
ホーガンはモリゾの絵を抱えて、美術館正面の階段を下りる。
「写真を撮れ!」と、もう1人がアイルランド訛りで叫んだ。
この時にカメラマンに撮影させた写真は、美術犯罪史において重要なものとして残っている。
2人は途方に暮れた。計画が狂い、手元に名画が残ってしまったのだ。
もとより絵が欲しかった訳ではない。とはいえ、もはや事件は大きく報道されている。
2人は友人に、絵をベッドの下に隠すよう頼むことにした。
この友人は迷ったあげく、美術館に絵を返した。
名画を失って慌てていたテート美術館は安堵したことだろう。
しかし事件が解決したわけではない。行方をくらませた犯人を見つけ出す必要がある。
この捜査を担当したのは、アイルランド警察のマクグラス警部だった。アイルランド人が、アイルランド人を追う形になる。
マクグラス警部にはある懸念があった。
学生はあえて言えば思想犯である。彼らがもし起訴されてしまえば、もしかしたら「殉職」してしまうかもしれない。
ある情報筋から、警部は2人の所在を知る。彼らはダブリン行のフェリーに乗るという。
マクグラス警部は先手を打ち、ホーガンの祖母に電話をかけた。議題は2人の確保についてである。
何も知らない学生2人がフェリーから降りると、祖母が運転する車が待っていた。
祖母は一言、「乗りな」と言い、2人はおとなしく従ったという。
遺言が招いた混乱
モリゾの絵を含む39点の絵は、元はアイルランドのヒュー・レーン卿のものだった。
彼は熱心な美術コレクターで、印象派の絵を中心に集めては家に飾り、美しい邸宅を作り上げた。
レーン卿は、これぞダブリンで見るべき芸術だと考えていたという。
当時のアイルランドは、美術に関しウェールズやスコットランドより遅れていた。
レーン卿は印象派の風をアイルランドにも届けようと、ダブリン・ナショナルギャラリーの構想を持ち始める。
しかし当時のダブリンはスラム街の対応に追われており、絵画の購入費用等、諸経費についての反発が強まってしまう。
レーン卿はやむなく、ロンドンに39点の絵を寄贈することにした。
遺言書にも、ロンドンのナショナルギャラリー(テート美術館)に絵を正式に送ることを書き残している。
ロンドンの美術館は絵を受け入れたが、ある条件を求めた。「すぐには展示しない」ことである。
レーン卿の持つモネやルノワールは、特段、展示するほどのものではないと判断されたのだ。
2年経過した1915年、レーン卿は構想を練っていたダブリン・ナショナルギャラリーの館長に就任する。そして彼はコレクションの寄贈先について考え直し始めた。
レーン卿は、2通目の遺言書に「他の近代絵画と一緒に展示するのに適したギャラリーを建設することを条件に、39点の絵画をダブリンに残す」としたためた。
レーン・コレクションの所有について、この2通目の遺書が混乱の元となった。
1通目ではロンドンのナショナル・ギャラリーに絵を寄贈すると書き、証人による署名もある。
しかしダブリンに絵を残すとした2通目には証人の署名がない。
しかも遺書を書いてすぐ、レーン卿は乗船していたルシタニア号の沈没によって命を落とした。ドイツのUボートの魚雷攻撃による沈没だった。
ロンドンのテート美術館がレーン・コレクションを所有していることは、法的に問題のないことだというのがイングランド側の主張である。
アイルランドはレーン卿の意思を尊重し、ダブリンにコレクションを戻すべきだと求めた。
この論争が続いたまま、10年以上が過ぎた。そして2人の学生が業を煮やし、事件を起こしたのである。
遺言と盗難が導いた結末
事件から4年後の、1960年。
学生たちの行動が社会を動かしたのだろうか。ついにダブリンとロンドンの間で妥協案が実施された。
レーン・コレクションの一部を2つのグループに分け、交互に展示するというものだ。
現在はそれぞれ5点がグループに振り分けられ、27点はダブリンのヒュー・レーン・ギャラリー(旧ダブリン・ナショナルギャラリー)に長期貸与、残る2点はロンドン・ナショナル・ギャラリーに残っている。
モリゾの『夏の日』が属するグループAは、現在ロンドンにある。
これからも5年ごとにダブリンとロンドンを行き来する予定だ。
盗みを働いた学生2人は起訴されずに済んだ。
ロンドン警察としては、2人がアイルランドの政治的英雄にならないように、かつ美術館の警備の甘さが露呈するのを恐れて裁判沙汰にしたくない気持ちがあったとの噂がある。
この結末をもってして、盗難事件や所有権争いは解決したと言えるのか。被害者なき犯罪だったと言えるのか。
アイルランドとイングランド当人のうかがい知れない感情の中に、答えがあるのだろう。
あとがき
絵の所有権を主張するために盗んだ事件と言えば、ルーヴル美術館のモナ・リザ盗難事件が特に有名かと思います。
もっとも、ルーヴルの場合は数々の疑惑があり、金目当てだった説も有力です。
比べると、今回のモリゾ盗難事件は良くも悪くも動機が純粋であるようですね。
動機、主張、行動が一貫しているという点では、明らかに思想に基づく犯罪と言えるのではないでしょうか。
起訴されていない以上、犯罪と呼ぶのも一種の乱暴さがあるかもしれません。
被害者なき犯罪かどうかで言えば、被害者はいるんじゃないでしょうか。
美術館にモリゾの絵を見に行きたかった人、防犯意識の低さに評判を落としたテート美術館が該当するかと思います。
警備員の職務態度は自業自得だと思われそうではありますが、正直な話、そういう時代だったの一言に尽きます。
消えた絵に気づいても、補修のために移動したのだと思ってしまう。
絵を抱えた人が挨拶してきても、職員か関係者と勘違いする。
1900年前半のうちは、一部の美術館のセキュリティはかなり適当でした。
参考文献
事件に詳しいもの
https://www.abc.net.au/news/2017-04-01/tate-gallery-art-heist-an-act-of-political-protest/8397128
https://www.irishpost.com/life-style/two-irish-students-stole-priceless-masterpiece-londons-tate-gallery-got-away-117360
https://www.irishcentral.com/roots/history/how-two-irish-lads-stole-one-of-london-s-greatest-art-pieces
https://news.artnet.com/art-world/berthe-morisot-summers-day-three-things-to-know-1904573
https://www.irishtimes.com/opinion/memory-lane-ray-burke-on-the-audacious-theft-of-berthe-morisot-s-impressionist-masterpiece-and-the-hugh-lane-bequest-1.4541647
ヒュー・レーン卿に詳しいもの
https://www.theguardian.com/artanddesign/2015/may/30/how-ireland-was-robbed-hugh-lanes-great-art-collection
https://www.rte.ie/centuryireland/index.php/articles/hugh-lanes-gift-to-ireland
絵画の所有権に詳しいもの
https://www.hughlane.ie/news-archive/3139-lane-bequest-announcement