クロード・モネ『印象、日の出』(1901)
フランスの美術館で起きた名画盗難と、日本で起きた毛皮や現金の強盗。
遠い国のそれぞれの事件は、闇社会の人物を通じて密接な繋がりを持つことが判明していきます。
日本最大級の被害額を記録した有楽町三億円事件。警察の前に現れたのは、フランスのギャングと国際犯罪コーディネーター、そしてヤクザが織りなすフィクション顔負けの犯罪プランでした。
(本記事の三億円事件は、未解決で有名な府中三億円事件とは別です。)
4つの事件
まずは本記事の軸となる4つの事件について簡単にご紹介する。
後々、裏の事情も交えて詳細に解説するので、まずは軽く読み流して頂ければと思う。
1984年10月17日 スミュール・アン・オーソワ美術館襲撃
パリ郊外にある美術館は、ひと晩のうちに5点の名画を失った。
盗まれたのは、後の印象派に影響を与えた巨匠、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作の絵。
今回の被害者リストを列挙しよう。
『ボド夫人の肖像』
『帽子をかぶった少年』
『夕暮れ』
『果樹園』
『スミュールの落日』
……合計100万ドル。
そしてルーヴル美術館からこれらを借りていたオーソワ美術館の関係者。彼らも著しく信用を失った被害者と言える。
残念ながらオーソワ美術館襲撃についてはこれ以上論じられなかったし、報道も控えめだった。
文化の国フランスが絵画の盗難に無関心なはずはない。犯行の痕跡があまりに少ないか、警察が情報を制限しているかのどちらかと思われる。
幸いなことに、盗まれたコローの絵はすぐに浮上した。しかし遠い国で見つかった名画は、美術品を食い物にする闇社会の規模をほのめかし、社会に跋扈する冷酷な犯罪者たちの存在を知らしめた。
コローの絵は、日本の闇市場を流れていた。
1985年10月27日 マルモッタン美術館襲撃
1985年からの数年は、フランス各地のシャトー(城、貴族の住居)が頻繁に襲われた時期である。もちろん狙いは高額な美術品だった。
パリにあるマルモッタン美術館も同様、餓えた強盗団には金塊の山のように見えたらしい。
午前10時過ぎの美術館には警備員も客もいたが、武装した5人の男たちはこれを強引に制圧し、名画漁りに着手した。
完全に美術館内部を熟知した者の動きだった。
強盗団は2手に分かれ、次々と絵を奪っていく。ルノワールの『岩に腰かける裸婦』『モネの肖像』、モリゾの『舞踏会で』、印象派の命名の元となったモネの『印象、日の出』……
計9点の絵が奪われた。その中でも『印象、日の出』は値がつけられないほどの価値があるという。
ベルト・モリゾ『舞踏会で』(1875)
絵が日本に渡った形跡はない。それでもこの事件は、日本のヤクザとフランス・ギャングを結びつけた。
1985年10月30日 原宿の毛皮販売店襲撃
事件が起こる5日前のこと。ある男がフランス人を連れて毛皮販売店を訪れた。
「この男がフランスから毛皮を日本に輸出したいと言っている。日本人の好みを教えてやってほしい」
間が悪いことに、店はちょうど展覧会に多くの品を出しており、十分なプレゼンテーションができない。商品が戻ってくる3日後に再び会う約束をして男たちは別れた。
後に店主は回想する───フランス人は鋭い目つきで店内を見まわしていた。
後日、男たちは店主不在のタイミングにやって来た。持ってきたのは毛布ではなくバールだった。
扉をこじ開けた男たちは、ミンクの毛皮など約60点、販売価格にして1億数千万の売り物を持ち去っていった。
1986年11月25日 有楽町三億円事件
当時の日本を揺るがす大事件であった。
午前8時25分ごろ、三菱銀行有楽町支店で現金の搬入をしていた輸送車が3人の男に襲われた。
マイケル・ジャクソンなどの人面マスクをしており顔は見えない。犯行は終始無言だったという。
ドライバーがトランクを開けた瞬間、突然催涙スプレーを吹きかけられ、エアガンで頭を殴られた。「強盗だ!泥棒だ!」と叫んだが反応はない。
犯人たちはジュラルミンケース2個と麻袋4個を持ち出し、ワゴン車に詰めて去って行った。
盗まれたのは総額3億3千万の現金。1968年に府中市で起きた3億円事件を上回る、日本史上最高額の盗難事件だった。
その後犯人たちは500m離れた西銀座地下駐車場に移動し、停めてあったマークⅡに乗り込み、港区にある豊川稲荷地下駐車場に移動。さらに別の車で成田空港へ向かい、4時間後にはシンガポールへの便に乗り込み逃亡した。
警視庁が緊急配備した検問や、国外逃亡を予期した成田空港の警備強化が敷かれる前に、犯人たちは素早く姿を消したのだった。
高度に計画された犯行であることは明白だが、犯人たちはかなりの遺留品を残している。
最初に移動した西銀座地下駐車場にはワゴンを置いて行った。これは盗難車であった。中から犯行に使ったであろう人面マスク、ヘルメットの他、ストッキング、コート、毛布などが残されていた。
さらに豊川稲荷地下駐車場では紙袋に入った1500万円が見つかっている。これは全て千円紙幣だった。レンタルしたマークⅡは逃走中に返却されており、タイトな計画だったはずの犯人たちの妙な余裕を感じさせる。
マスコミや作家たちは推理ゲームを始めた。
「催涙スプレーは庶民的な道具である。犯人は近場に住む会社員だろう」
「無言の犯行はプロである証拠だ。逮捕された場合も想定し、殺傷能力のない凶器で殺害の意図がないことを示し、刑を軽くすることも考慮されている」
「欧米型犯罪とか言われているけど、私は完全な日本型犯罪だと思うよ。欧米というのはピストルぶっ放して、平気で人を殺してカネを奪っていくヤツですよ」
この大事件は当初こそ大きく報道されていたが、捜査は大きな進展を見せないまま2か月後にはほとんど報道されなくなった。
18年前の府中3億円事件と同じように、手掛かりは途絶えてしまったのだろうか。
「現在は目撃情報の徹底した収集、遺留品の割り出し、不良退職者の洗い出しなど、あらゆる情報を収集している基礎調査の段階で、作業に手間がかかるのでそれがまだ終わっていない」
警視庁幹部は長期戦を匂わせた。
事件を結ぶキーマンの逮捕
暗躍した日本人、藤曲信一
1987年9月18日、毛皮盗難事件の実行犯の1人が逮捕された。
この男は藤曲信一(ふじくま しんいち。逮捕当時47歳)。共犯者の供述によって逮捕に至った。
藤曲は逮捕される前から、ある疑惑で警察にマークされていた人物でもある。
それは名画密輸、密売の疑い。冒頭で紹介した2つの美術館襲撃事件で奪われた絵を、日本で売りさばいていたのだ。
日本人とフランス・ギャング。両者を結びつけた接点はどこにあったのだろうか。
それを知るには、まず藤曲の犯罪歴をたどる必要がある。
藤曲信一は、犯罪の国際化を象徴する人物と言っても良いだろう。
フランス語と英語に堪能、頭の回転が速くビッグマウス。人の信頼を得る技術に長けており、それでいて無責任で二重人格的、つまり知能犯罪に適応できる男だった。
藤曲は上海で生まれたが、その幼少期は謎に包まれている。父母は正式に結婚しておらず、検事の話では頻繁に変わる戸籍を揃えるのさえ大変だったという。
東京の高校を2年で中退してから、藤曲は犯罪への道へ進んだ。18歳で強盗事件を起こして以降、窃盗や関税法違反などの犯罪を繰り返している。
30代後半にさしかかった藤曲は、ある事件をきっかけにフランスとの強いコネクションを持つようになる。
当時、藤曲はある音楽事務所に勤めていた。「これからは世界を舞台に稼ぐ時代だ」と豪語する彼は、残念ながら本業ではそうならなかった。
しかしこの音楽事務所は旧東声会系のヤクザと資金的な繋がりを持っており、社長と共に麻薬の密売の隠れ蓑となる貿易会社を立ち上げた。
その仕事の一環だったのだろう。1978年、タイのバンコクからフランスに入国する際、ヘロイン7キロを隠し持っていたことが発覚し逮捕された。
藤曲は「中国人に頼まれた。ヘロインとは知らなかった」と弁解したが、結局、禁固7年の刑でパリのサンテ刑務所に服役した。
ただしミッテラン大統領就任の恩赦によって5年目に釈放され、国外追放処分となって日本へ帰国している。
刑務所生活の最中、藤曲はあるフランス人と親交を深め、犯罪ノウハウを交換し合った。彼はここでフランス語を学んだと言われている。
フランス人の名はフィリップ・ジャマン(Philippe Jamin)。この男はギャングの一員であり、そして藤曲に名画の密売を依頼した人物でもある。
さらにスミュール・アン・オーソワ美術館襲撃、毛皮盗難事件、有楽町三億円事件にも実行犯として参加した。ジャマンは休むことを知らないギャングのソルジャーだったのだ。
フランス・ギャングの実行隊員、フィリップ・ジャマン
ジャマンはフランスで有力なギャング組織『ギャング・ド・ラ・パンリュ・シュード』(パリ南郊ギャング団)のメンバーだった。
このギャングは計画性の高い、かつ荒っぽい犯行を得意とし、いつもプランどおりに遂行し風のように姿を消す。覆面などで顔を隠すのも彼らの特徴である。
構成員は約200人(1988年当時)と言われており、アルジェリアで困窮し金目当てに参加したメンバーが多い。
ジャマンはオーソワ美術館から盗んだコローの絵を藤曲に渡し、日本で密売させた。
さらに有楽町三億円事件にも参加し、日本を大いに震え上がらせた人物である。彼を抜いて一連の騒動を語ることはできない。
ジャマンが日本の捜査線に浮上したのは、三億円事件の遺留品からだった。
まずワゴン車に残された毛布。これは外国人用の特注品で、貸出人のチェックリストの中にフランス人の名前があった。
逃走に使ったレンタカーはフランス人名の偽造免許証で借りられていた。偽名ではあったが、もはや捜査の対象はフランス人犯罪者に絞られた。
そして複数の現場に残された指紋。地下駐車場に残された現金と、犯人の拠点として疑われた麻布のマンションから指紋が検出された。このマンションはわずか数日しか借りていないにもかかわらず、借主は敷金を受け取らずに姿を消していた。
これらの証拠から犯人として割り出されたのが、フィリップ・ジャマンである。
さらに同じくしてもう1人の実行犯、ユセフ・キムーン(Youssef Khimoun)の存在も判明。ついに事件は解明へ動き出す。
1987年11月9日、捜査一課はジャマンとキムーンを強盗致傷の疑いで国際指名手配。三億円事件から約1年後の出来事であった。
同じころにフランスから刑事4人が来日している。新進気鋭の女性刑事ミレイユ・バレストラッツイ警視正含むフランス捜査陣と、日本警察による共同戦線が張られることになった。
しかし文化も気質も違う2国間の連携は、決して少なくない不和を生みだしていく。
日本は三億円事件の完全解決を望み、シンガポールに逃げた犯人の逮捕に力を注ぐ。
一方のフランスは、犯人逮捕への協力は前提としているが、むしろ絵の奪還を重要視した。
フランスの国宝ともいえるコローやモネの名画が盗難に遭って、2年の月日が流れようとしている。実のところ、その行方は日本にも心当たりがあった。そしてフランスはそれを知りつつ煮え切らない態度を取る日本に不信感をあらわにした。
「藤曲信一とヤクザが、コローやモネの絵を国内で売りさばいていたのは知っていたはずだ。なぜもっと追求しないのか?」
名画を売りさばく藤曲
前述の通り、藤曲は日本国内でコローやモネの絵を売り歩いていた。
マルモッタン美術館事件でモネが奪われる少し前のこと。藤曲は都内の画廊や美術愛好家のもとを訪れ、カタログの中にあるモネの『印象、日の出』を指差した。
「これを買わないか?じきに手に入る」
こう持ち掛ける藤曲を、「こんな有名な絵が手に入るはずがないだろう」と画商たちは軽くあしらった。
モネの絵は売れなかったが、コローの絵は現物があったせいか売ることができた。暴力団稲川会系の元幹部で貴金属ブローカーの男の助けもあったという。
銀座の闇市場の性質も、藤曲の密売を成り立たせた一因であった。
1枚数千万円のコローの絵を鑑定書なしで買うなんて無理な話だと、画商たちは冷たい目を向けていた。しかしそれはあくまで建前に過ぎない。
「コローの名画となれば、欲しい人間はいくらでもいる。それを知ってさえいれば、少々危ない品であっても裏で買う。もちろん、怪しんだフリをして買い叩けば利幅は大きい。仲間の画商に転売した形をとってから収集家に高値で売ればいいのだ」
これが銀座の闇市場の本音である。
ある画商の関係者は、「最近、絵を取り扱う仕事が面白くなくなった」と不満を漏らしていた。
「お客が絵を求めに来る時、「誰の絵をぜひ買いたい」と言ってくるのではなくて、「何千万円の絵を揃えてくれ」と注文してくる」
成金となって有頂天にいる日本はいいカモになる。ジャマン含むフランス・ギャングはそう判断したのだろう。
悔しいことではあるが、ジャマンには先見の明があったと言わざるを得ない。
1987年3月のオークションでは、安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)がゴッホの『ひまわり』を53億で落札し、1枚の絵に対する最高の落札価格を記録した。
カネ余りの日本はその後も西洋の名画を高額で落札している。もちろんこれは正当な落札行為であり非難されるべきものではないが、ヨーロッパの美術界からは良い目で見られていないのも事実である。
フランス捜査陣の日本への厳しい目は、名画の買い漁りに起因するところもあるのかもしれない。
ともかく、オーソワ美術館から盗まれた5点のコローは、すべて日本で秘密裏に売られた。
『スミュールの落日』と『果樹園』は、暴力団の元幹部を通じて神奈川県の愛好家に。
『夕暮れ』は藤曲が借金の担保とし、最終的には八王子の村内美術館に。
『帽子をかぶった少年』は暴力団や画廊を転々とし、大阪の江戸堀画廊に。
『ボド夫人の肖像』は当時の藤曲の愛人への手切れ金として。
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『帽子をかぶった少年』(1850)
ところが、ある収集家が不信感から絵を鑑定に出した。フランスの大手画廊に写真を送ったことから、盗難名画が日本に持ち込まれていることが発覚し、インターポール(国際刑事警察機構)が警視庁に捜査を依頼。藤曲の売りさばきが発覚した。
藤曲の逮捕容疑は毛皮の強盗だったが、警察はむしろ取り調べの中で名画密輸や三億円事件との関与についての追及を優先していたという。(それでもフランス警察にとっては「ぬるい」尋問だったということだろう。)
藤曲にとってジャマンとの出会いは、ビジネスチャンスの到来として喜ばしいものだったのだろうか。表面上はそう見える。フランスとの強いコネクションを手に入れることができたのだから。
しかし2人の出会いは、藤曲にとって地獄の始まりだった説もある。このあたりは藤曲の証言を信じるか否かで心証が変わってくるだろう。
藤曲は、逮捕されてむしろ安堵した様子でもあったというのだ。
追い詰められる藤曲信一
情報が込み入ってきたため、ここまでお読みいただいている方のためにも情報の整理が必要と思われる。
以降は藤曲の証言も参考にし、事件の裏にあった事情を交えつつ時系列で事件を振り返ろう。
1978年1月25日
藤曲、フランスへのヘロイン密輸容疑で逮捕。同年のうちに禁固7年の刑が確定し、獄中でフランス・ギャングのジャマンと知り合う。
1982年11月15日
ミッテラン大統領就任の恩赦で藤曲釈放&国外追放。日本に帰る。帰国後すぐに以前から関わりがあった旧東声会系暴力団組長の事務所に寄宿した。
1983年?月
藤曲、ふたたびフランスへ。もちろん正規の旅券ではない。ジャマンの家に下宿し、ギャング活動の知識を得る。時にはドライバーとして犯行に加わったとの話もある。
1983年10月
俳優アラン・ドロンの来日に藤曲も同行。藤曲は偽名「風間信一」でアラン経営の化粧品会社「ADD」の日本支社長を務めていると語り、名刺を持ち歩いていた。
一説によると、藤曲はフランス・ギャングによる貴金属の密輸にも参加しており、日本の知人には「アラン・ドロンなら税関はフリーだから、盗品を簡単に持ち込める」と自慢げに語っていたという。
確かに、アランはギャングとの関係を疑われたことがある。とはいえ藤曲の知人が言うような密売、密輸に関わったかどうかは、ほとんど不明なままだ。もちろんアランは関与を否定しているし、捜査の手がどれほど入ったのかもわからない。
1984年9月
風間信一(藤曲)は、新宿第一ホテルの展示会の一角を借り、貴金属を売っていた。堂々と密輸品だと言っていたという。(後に被害に遭う毛皮店主の証言)
1984年10月
藤曲は日本を出、フランスへ入国。日本からシンガポールまでは正規の旅券を使い、以降は偽造旅券でシンガポールからドイツ経由、列車でフランスへ向かった。
1984年10月17日
スミュール・アン・オーソワ美術館襲撃事件。現場に残された指紋から、ジャマンとキムーンの2人が関与していることが判明した。藤曲がフランスにいた時期の出来事であるために藤曲の関与が疑われたが、本人は否定。捜査でも立証されていない。
1985年3月
藤曲と当時の愛人によって、盗まれた『夕暮れ』『スミュールの落日』が日本に持ち込まれる。
1985年4月
ジャマンによって『ボド夫人の肖像』が日本に持ち込まれる。これはオーソワ美術館から盗んだ絵の中で最も高額で売ることを期待された。
藤曲がジャマンから絵を預かり、指定の値段以上で売れればそれが仲介料となる取り決めだった。
しかし実際には指定の値段で売る事すら叶わず、藤曲は追い詰められていく。
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『ボド夫人の肖像』(1837)
1985年8月
藤曲に、フランス・ギャングの男(ジャマンの上司との証言あり)から電話。
「日本ではいい絵が売れるか」との問いに、「ええ、売れますよ」と答えている。
藤曲はこの頃には、名画が予想より低い値段でしか売れないことを学んでいたはずである。悪癖のビッグマウスが出てしまったのだろう。
電話の数日後、マルモッタン美術館のカタログが送られてきた。7枚の絵に丸が付けられており、これから奪い取る対象を示しているのは明白だった。
「マークしてある絵だから、買い手を探してくれ」と頼まれた藤曲は、モネの『印象、日の出』などの買い手を探し始めたが見つからなかった。
このカタログの存在のため、マルモッタン美術館襲撃は藤曲が指示したとの疑いも持たれたが、立証できていない。
そして藤曲のもとには次なる絵が送り付けられてくる。
1985年10月
ジャマンらによって『帽子をかぶった少年』『果樹園』が日本に持ち込まれる。
藤曲は前の3点の代金の残金3000万円を支払えず、ジャマンは激怒した。ジャマンと藤曲は、金をつくるために毛皮店の強盗を決意する。
1985年10月27日
マルモッタン美術館襲撃事件。モネの『印象、日の出』を含む、モリゾ、ルノワールの名画9点が奪われる。
フランス・ギャングの仕業ではあるが、ジャマンらの関与は不明である。
藤曲は「こんなに派手にニュースになったら売れるわけない」と不安を口にしたが、ギャングの男は「どうしても欲しがる収集家はいるから。そういったマニアックには関係ない」と言い放った。
1985年10月30日
毛皮店襲撃事件。実行犯は藤曲と日本人男性、ジャマンの3人。皮肉にも店名は『モネ』であった。
この頃には、藤曲は大きな不安にかられていた。毛皮店襲撃程度では、ジャマンの怒りが静められそうにないからだ。
実のところ、ジャマンはギャングの下っ端であった。上にはマルモッタンのカタログを送ってきた例の男もいる。
藤曲が絵を高く売れないことで「上納金」を収められず、取り急ぎ毛皮店を襲ったが、まだ金が足りない。
藤曲だけではなくジャマンも追い詰められていたことが、藤曲の供述からはうかがえる。
1985年11月末
藤曲は東京から姿を消した。しばらくは熱海の愛人の家に隠れていたという。
1986年1月
どこから情報が流れたのか。ジャマンが熱海の家を訪ねてきた。
「風間(藤曲)を消しに来た。あいつはどこにいる!」
しかし藤曲は、この時には熱海を離れ長野のスキー場旅館で雑用をしていた。
命拾いであった。しかし藤曲を狙っていたのはジャマンだけではない。
ジャマンは絵の残金の要求のため、藤曲が身を寄せた暴力団組長の元へ出向いた。しかし組長自身も藤曲に貸した800万円を回収できていなかったという。
藤曲はフランス・ギャングと日本のヤクザに追われる身となってしまった。
1986年2月末
暴力団組長の元にパリから封筒が届く。藤曲宛てだったが、所在不明のために組長が開封した。中に入っていたのはマルモッタン美術館のパンフレットから切り抜いた、強奪されたモネなど9点の絵の写真だった。
1986年3月末
メッセージが本物かどうかを確認するため、組長はフランスに向かう。犯人グループと接触し、倉庫に隠されたモネなど9点の絵の写真を撮って帰国した。
マルモッタン美術館の事件と日本のヤクザが繋がった数少ない証拠だった。
この写真をもとに、在日フランス大使館は「5億円払えばこれらの絵を回収できる」と脅された。このゆすりには組長と、あるジャーナリストが関わっていると言われている。
後に来日するフランス捜査陣が特に不信感を抱いたのが、ゆすりを行った人物を追求しない日本捜査陣の態度であった。
1986年11月25日
ついに有楽町三億円事件が起きる。実行犯はジャマンとキムーン、さらにギャングの一員であるティファラ・ノルディン、リシャール・ルロワの4人。この時、名古屋にいた藤曲は、どんな気持ちで報道を見ていたのだろうか。
1987年9月18日
藤曲信一逮捕。毛皮店強盗の容疑だったが、名画密売についても藤曲はマークされていた。
取り調べでは、むしろ三億円事件と名画密売についての追及が主であった。
当時の報道は、藤曲が三億円事件の犯人であるかのように騒ぎ立てていた。これに抵抗する意図で藤曲は留置場でハンガーストライキを始める。
しかし藤曲と親しかった知人は言う。
「フランスの犯罪者の間では、逮捕後、留置場でハンストをやるというのは、自分は何も喋っていないという外部への合図なんだよ。藤曲も、それはよく知っている」
藤曲自身も、あらためて主張した。
「毛皮の窃盗はジャマンに脅されて加わったが、絵画が盗品とは知らなかった。まして三億円事件なんて全く関係がない」
藤曲が三億円事件に関与した証拠がある訳ではなかったが、彼には名古屋でのアリバイもない。捜査陣はなおも追求を続けた。
三億円事件の手際の良さは、周辺の地理や交通量に詳しくなければできるはずがない。おまけにジャマンらは日本語を話せなかった。少なくともガイド役として、フランス語が話せる日本人が関わっていると考えるのが自然である。
一方の名画密売の捜査は、大きく進展した。
ある日、取調室の机の上にフランス人たちの写真が並べられた。コローの絵を藤曲に渡した人物の割り出しのためである。
藤曲はまずジャマン、続いてキムーンの写真をとり上げた。
刑事は一瞬、息をのんだ。指紋照合で三億円事件の実行犯として判明した2人が、名画密売でも暗躍していたことが判明したのだ。
そして1987年11月9日、有楽町三億円事件の容疑者であるフランス・ギャングは国際指名手配となった。
こうして、錯綜した事件の全体像が日本警察とフランス警察に認知されるに至った。
逃走したフランス・ギャング4人の捜索、藤曲の裁判、盗まれた名画の奪還に、両国は突き進んでいく───数々の疑惑や謎を残したままではあるが。
マルモッタン美術館の実行犯は誰なのか?
三億円事件に関わった日本人はいないのか?
アラン・ドロンに接近した藤曲の真意は?
司法による秘密裡の取引を疑う声や、警察の秘密主義への不審感は、決して少なくなかった。
しかし多くの疑惑は、もはや一般人が知る由もない世界に消えた。
犯人たちと名画のその後
藤曲の裁判
事件から約2年経った1987年11月21日のこと。藤曲信一は毛皮窃盗の罪で懲役2年6か月を言い渡された。
北秀昭裁判官は、「仮にフィリップ・ジャマンとの金銭トラブルがあったとしても、犯行を正当化できるものではない」としている。
これは藤曲にとって予想外に軽い刑だったのか、藤曲は控訴するどころか「寛大な処置は望まない」と言い放ったという。
藤曲は出所後も週刊誌などに情報提供し、フランス・ギャングと日本のコネクションの一部を語った。全てに裏付けがある訳ではないが、その一部は本記事に反映している。
藤曲によればフランス・ギャングは、要らなくなった者は必ず殺すという。
有楽町三億円事件についても、「本人たちは成功したと思っているだろうが足がついた時点で失敗。すぐに命を狙われるだろう」とギャングの凶悪性を強調した。
そして自らの命も危ういことを付け加えた。
フランス・ギャング達の逮捕
有楽町三億円事件の犯人たち4人は、皆シンガポールへ逃げた。捜査本部は、一味の根城が、外貨の持ち込みと持ち出しが容易な「人」と「物」の交差点、シンガポールにあると睨んでいた。
1988年、フィリップ・ジャマンは逃亡先のメキシコで逮捕され、フランスに移送された。直接の容疑はオーソワ美術館襲撃の容疑である。
取り調べの中でジャマンは三億円事件への関与を認めた。主犯は藤曲だとも述べているが、フランス当局が証言をどう扱ったのか定かではない。
ジャマンは共犯のティファラ・ノルディンと共に懲役6年の刑となった。
ユセフ・キムーンの行方は1992年8月時点で不明である。残念ながら彼が逮捕された旨の情報は見当たらない。
リシャール・ルロワはフランスで殺害されていた。1987年7月、通りすがりの車から降り注いだ銃弾により、ルロワは息絶えた。
犯人たちの国際手配が始まる前のことであり、不手際の清算という理由ではなさそうである。フランス当局は、「麻薬取引のもつれが原因」と語った。
名画の行方
結論から述べると、1点を除いて名画はすべてフランスへ持ち帰られた。
まずマルモッタン美術館から奪われた9点の絵画。これは事件から5年後の1990年にフランスのコルシカ島で発見された。絵画の損傷も、修復可能な程度だったという。
フランス警察はなぜか絵の発見の経緯には口を閉ざしている。
美術品特別捜査班は、「我々はもっと早く行動することもできたが、絵が破壊されることが無いようにしたかった」と述べた。絵が人質になっているので、慎重にかつ秘密裡に行動せざるを得なかったという趣旨の言葉であろう。
マルモッタン美術館の学芸員アルノーは、「我々への最高のクリスマスプレゼントだ」と喜びと安堵を口にした。
しかし事件は解決したと言えるのだろうか?武装ギャングが逮捕されたのかも、絵がどういった経緯でコルシカ島に渡ったのかも曖昧なままなのだ。
一方、オーソワ美術館から盗まれたコローの絵について。
日本の闇市場を流れた絵は、藤曲の手を離れて遠い所へたどり着いた。
日本警察は追跡に成功して絵を押収したのだが、どうにもやり方が強引だったと顰蹙を買っている。おそらくフランスからの圧力もあったのだろう。
絵の最終的な持ち主は、もはや善意の第三者であった。
日本の民法が定めるところによれば、盗難品が転売され、事情を知らない人が持ち主となっていた場合、盗難から2年以内の期間のみ被害者は返還を請求する権利があるが、それ以降は現在の持ち主に所有権がある。
さらにフランスの民法でも、善意の第三者に生じる所有権は盗難発生後3年以降は認められる。
絵が押収された時には、既にオーソワ美術館襲撃から3年経過していた。にもかかわらず、警察は証拠隠滅の恐れのない人物から令状を執行して絵を回収した。
「証拠品として貸し与えることもできたのに」「警察権の民事介入、画廊の信用棄損だ」と抗議の声が上がり、これも一筋縄ではいかない事態となることが予想された。
当事者間でどのような取引が交わされたのかはわからないが、最終的に絵はフランスへ帰還することとなった。
コローの『ボド夫人』1点を除いては。
『ボド夫人』はまず藤曲の愛人に手切れ金として渡された。その後、数人の所有者の手を経て、都内の韓国人が知人に貸した3000万円の担保として預かっていたことが分かっている。
この情報は1988年のもの。筆者の知る限りでは、2015年時点では『ボド夫人』の行方は不明である。
あとがき
有楽町三億円事件は、未解決の府中三億円事件に比べると注目されていません。やはり未解決事件の方が人の興味を惹くのでしょうが、フランス・ギャングや名画密売が関わっているとなれば犯罪史上、かなり重要な事件ではあるかと思います。
ただし詳細な解説がネット上には見当たりませんでした。それが本記事を作った動機の1つです。
モネの『印象、日の出』はとても有名な絵ですが、その盗難事件であるマルモッタン美術館襲撃事件はあまり掘り下げられないまま今に至っています。
1990年ごろまで、フランス当局はモネの絵はいったん日本に渡ったと睨んでいたようですが、今はどうなのでしょうか。否定もしくは肯定する確たる証拠をつかんだのか、そうでないのかも想像するほかありません。
なお、タイトルにある「フレンチ・コネクション」とは1930年~1960年代に盛んだった麻薬密売ルートのことを指します(トルコーフランス(コルシカ)ーアメリカのルート)。
映画化されたこともあり、単語自体がひとり歩きしている感もありますね。
1987年ごろのマスコミは、パリ→日本の犯罪者や絵画の移動を、このフレンチ・コネクションに重ね合わせてセンセーショナルな報道を行っていたようです。
事件の全容を知った後では少しオーバーな表現にも思えますが、タイトルとして借用させていただきました。
参考文献
本文に広く活用したもの
https://www.fleur-de-coeur.com/seine004.html
https://apnews.com/article/6f2593be15944e962031485bf808a547
フランス同伴の「愛人」が語る 「藤曲」という男.週刊新潮.1987-11-12
国際強盗コネクション 毛皮も名画も3億円も.週刊朝日.1987-11-13
「足を洗わせてくれないフランス・ギャングの執拗な牙」.週刊朝日.1987-11-20
コローの盗難絵画 日本での運命.週刊朝日.1987-11-27
黒いパスポート 国際犯罪の点と線 9.読売新聞.1987-12-20
黒いパスポート 国際犯罪の点と線 12.読売新聞.1987-12-23
三億円事件の犯人とオーバーラップしたフランス名画窃盗事件にみる点と線.マスコミ市民.1988-11-04
名画窃盗事件 「藤曲信一」の三億円疑惑.週刊新潮.1991-01-03
藤曲信一が本誌に独占告白「私に届いたマフィアの指令」.週刊朝日.1992-08-28
有楽町三億円事件に詳しいもの
"無言の犯行„プロの仕業 徒歩で逃走か.サンデー毎日.1986-12-14
早くも迷宮入り 三菱銀行「三億円事件」.週刊新潮.1987-01-29
藤曲信一に詳しいもの
名画密売、モネの代表作も 印象-日の出.読売新聞.1987-10-29
「円」を狙う仏マフィアの水先案内人 藤曲信一の赫々たる前歴.週刊文春.1987-11-12
仏盗難名画密売の藤曲、毛皮窃盗で実刑判決/東京地裁.読売新聞.1987-11-21
藤曲信一・悪の鑑定書.文芸春秋.1988-01
フランス・ギャングに詳しいもの
シンガポール拠点に暗躍か 3億円強奪・名画窃盗グループ.読売新聞.1987-10-31
黒いパスポート 国際犯罪の点と線 11.読売新聞.1987-12-22
三菱銀行の3億円強奪 ジャマンが関与認める パリの16億円強奪も?.読売新聞.1988-05-07
絵画の回収に詳しいもの
https://apnews.com/article/ea36d35fb586163bcbb71ac40284049e
https://www.nytimes.com/1990/12/07/arts/9-impressionist-paintings-recovered-in-corsica.html
https://www.mutualart.com/Article/Great-Art-Heists-of-History--Masked-Gunm/57446D274B545839
盗難フランス名画「返せ」「返さぬ」で 日本人持ち主の言い分.週刊文春.1987-11-19
盗難「コロー」のボド夫人も見つかる 都内の韓国人の手に.朝日新聞.1988-01-27
仏で盗難、コローの名画「夕暮れ」 村内美術館が"故郷"ルーブル美術館に寄贈.読売新聞.1989-03-28
[国際事件リポート]強奪されたモネ 「印象-日の出」 仏捜査で5年ぶりに発見.読売新聞.1990-12-18