聖アントニオ大聖堂。画像引用:wikimediacommons/ Copyright©Creative Commons
イタリアのマフィア組織の1つ、ヴェネト・マフィアは美術品を交渉材料に好んで用いました。
今回はそのうち有名な事件を2つ、前編、後編に分けて情報をまとめています。
まずは聖アントニオの聖遺物が強奪された事件についてです。
ヴェネト・マフィア「マラ・デル・ブレンタ」
フェリーチェ・マニエロ(Felice Maniero)は、ヴェネト州を拠点とするマフィアのボスだった。
マニエロと仲間たちがブレンタ川沿いの村で生まれたため、このマフィアは「マラ・デル・ブレンタ(ブレンタの悪)」と呼ばれる。
彼らはイタリア南部のマフィアと接触して規模を拡大。強盗、殺人、武器や麻薬の密売でイタリアを恐怖に陥れた。
マニエロの特技の1つは、刑務所からの脱獄だ。刑務官に賄賂を渡し、移送のタイミング等で行方をくらませる。司法に腐敗が蔓延る時代が、マニエロを助けた。
マラ・デル・ブレンタは美術品の強盗でも知られている。盗品の返還を条件に自らの要求を通すため、あるいは権力の誇示のために、イタリアの宝は立て続けに奪われた。
1991年、ボスのマニエロは、聖アントニオ大聖堂の襲撃を指示した。ターゲットは展示されている聖遺物である。
狙いは2つあった。
マニエロの従兄弟の釈放と、自らへの監視措置の取り消し。
彼は交渉材料を欲していた。
聖アントニオの下顎骨
1991年10月10日、パドヴァにある聖アントニオ大聖堂に武装した3人組が乱入。
数十人いた礼拝者は脅され、あっという間に制圧された。
強盗犯のうち2人が礼拝者と修道士に睨みを効かせ、もう1人が聖遺物の入った箱を破壊し、4人目の車で逃走した。
聖アントニオ大聖堂には、生誕800年を迎えようとしている聖人の聖遺物が保管されている。
数世紀前の遺骨は礼拝堂に。
そして「腐らない舌」、「喉仏」、「下顎骨」が金の聖骨箱に展示されている。
まるで腐ることのない言葉を象徴しているかのように。
今回奪われたのは聖アントニオの下顎骨だった。
実の所、これはフェリーチェ・マニエロの思惑と少し違う。マニエロは一番価値の高い舌を注文していた。
後にマニエロ自身も言っているが、盗みに入ったチンピラは顎に舌がくっついていると思ったのだろう。
聖遺物のことを知らない人間なら、誰でもそう思うはずではある。
聖アントニオの下顎骨。金の装飾の中に飾られているのが見える。 画像引用:flickr
盗まれた下顎骨は、カラビニエリ(軍警察)の美術捜査チームによって、2カ月後には見つかった。
マフィアの犯行にしては早期の発見だ。闇に流れないうちに取り戻せたという意味で大成功である。
「公式発表」は、下顎骨を大聖堂のあるパドヴァから300km以上離れた、ローマのフィウミチーノ空港周辺で発見したと大々的に伝えた。
クリスマス直前に実現した聖遺物の奪還に、パドヴァの町には歓喜の鐘が鳴り響いた。
事件は無事解決したように見えたが、後に公式発表をめぐる騒動が勃発。
マフィアと密約を交わしていたとの疑いに、カラビニエリの信用が一時的に揺らぐことになる。
マフィアとの協力は罪か?
公式発表はフェイクだった。
聖人の下顎骨は、実際には大聖堂からそう遠くない場所に埋められていた。
カラビニエリの発表は明らかに嘘である。
そもそも聖遺物の発見は、当時改心者として警察に協力していたフェリーチェ・マニエロの証言に助けられていた。
問題はその適法性である。
マニエロが部下を通してカラビニエリに聖遺物のありかを教え、カラビニエリはパドヴァ近郊でそれを見つけた。
そしてカラビニエリは、公式発表で遠く離れたローマの空港付近で発見したと証言する。これはマニエロ達のマフィアから疑惑を遠ざけるための工作と思われた。
カラビニエリにとって捜査の進展というメリットはあるが、マフィアにも利益を与えかねない、少々危険な協力関係だった。
この密約は、マニエロが改心者となった1995年に表ざたになってしまった。
隠しきれなかったマニエロは結局、聖遺物強奪の指示者とされた。
カラビニエリでは、司令官ロベルト・コンフォルティ大佐とその部下2名が逮捕されてしまう。
容疑は「思想的虚偽」。公文書に事実と異なる記載をしたことが罪に問われた。
この逮捕は波乱を呼んだ。
捜査を進めるための改心者の利用は積極的に行われていたことで、違法ではない。
国防相をはじめ、カラビニエリの逮捕に対する批判の声が上がった。
コンフォルティ大佐らは、マニエロ率いるマフィアから金銭等を受け取った訳ではない。得る物があったとすれば、盗品をいち早く取り戻す、その1点のみであった。
マフィアの利益は、極めて限定的だった。
マニエロが当初狙っていた従兄弟の釈放や、マニエロ自身の監視措置の取り消しも行われていない。
ただ一点、盗品の発見現場の偽装のみがマフィアへの配慮となり得た。ただしこれによる実質的な利益は不明だ。
しかも盗まれた聖遺物を取り戻すためには、実質、マニエロの改心者としての供述をあてにするしか手の打ちようがない状況だったともいう。
結局、犯罪の構成要件を満たさないとして、コンフォルティ大佐ら3人は釈放された。
逮捕から6日後のことだった。
軍事刑務所から戻った大佐を拍手喝采が迎える。ほぼ1週間を独房で過ごした彼に、6月の太陽が照り付ける。
待っていた同僚は、「勇気を持って、やり残したことをやり直すんだ」と激励した。
コンフォルティ大佐はいつも通り、会議室へ戻っていく。そこはカラビニエリが取り戻した絵画や彫刻に囲まれた、いつもの部屋だった。
一方、フェリーチェ・マニエロは、改心を決意したが当時はまだ収監されていなかった。
トルコ・マフィアに狙われている彼にとって刑務所は危険だという説もある。
何より、部分的に没収されてはいるが、マニエロはまだ裕福に生活できるだけの莫大な資産を持ってもいた。
「エンジェル・フェイス」の異名を持つマニエロが持っていたカードは、聖アントニオの下顎骨だけではなかった。
この時すでに、マニエロはもうひとつの強奪事件の密告を行っていた。
(後半に続く)
あとがき
ヴェネト・マフィア「マラ・デル・ブレンタ」はイタリアにおける第6のマフィアとして位置づけられるとされています。(要検証)
シチリア・マフィア、カモッラ、ンドランゲタ、サクラ・コロナ・ウニタ、スティッダに続くと言われており、かなりマイナーな存在かと推測します。
国際的な脅威として警戒されている動きは確認できていません。
マフィアと警察の交渉はよくあることです。当然ではありますが当の本人たちは世間に向けて多くを語りません。
コンフォルティ大佐らが逮捕され、そして無実とされた経緯についても同様で、理路整然とした説明は困難です。
参考文献
フェリーチェ・マニエロに詳しいもの
https://it.wikipedia.org/wiki/Felice_Maniero
聖アントニオ大聖堂と事件に詳しいもの
https://www.santantonio.org/it/content/ricognizioni
https://www.viator.com/ja-JP/Venice-attractions/St-Anthonys-Basilica-Basilica-of-St-Anthony/overview/d522-a9764
http://www.confraternitasantantoniomolfetta.it/notizie/2021/trent_anni_fa_furto_mento_sant_antonio.html
https://mattinopadova.gelocal.it/padova/cronaca/2011/09/27/news/felice-maniero-racconta-il-furto-della-reliquia-1.1170849
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/02/11/felice-maniero-ordino-il-furto-di-sant.html?ref=search
コンフォルティ大佐の逮捕騒動に詳しいもの
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/06/12/le-reliquie-di-antonio-due-carabinieri-in.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/06/22/maniero-fa-retromarcia-conforti-non.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/06/24/conforti-resta-in-cella-per-osservatore.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/06/25/federici-tuona-giustizia-incredibile.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/06/27/conforti-torna-libero.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/06/28/conforti-torni-al-suo-posto.html?ref=search