ディエゴ・ベラスケス『フランチェスコ1世の肖像』(1638)の一部
ヴェネト州のマフィアによる美術品強奪事件の後編です。
この強盗も、マフィアのボスが行う交渉のために実行されました。
前編とは全く別の事件について扱っています。前編を読まなくても差し支えないと思いますが、ご興味があればぜひ。
ボスの意思
ヴェネト州のマフィア「マラ・デル・ブレンタ」のボス、フェリーチェ・マニエロが好んだ交渉法───それは美術品を盗み、返還する代わりに司法に便宜を図ってもらう事だった。
マニエロの美術への知識関心はかなりのものらしく、彼の弁護士は「現代だけでなく古代の教養もある」と言及している。
17世紀の画家ベラスケスの絵について、マニエロはこう語った。
「時々見に行っていたが、素晴らしい。独特の感動を与えてくれたよ。まるで印象派の肖像画のようだね」
彼はどこにあったベラスケスについて語ったのだろうか。
もしかしたら、奪った絵を隠したマフィアの隠れ家で眺めたのかもしれない。
1980年代、マニエロ率いるヴェネト・マフィアは第2の故郷としてモデナ州に移り住んだ。
モデナ州は当時、1人あたりの所得がミラノと並ぶほど高かった。マフィアにとってもそれは例外ではない。
マニエロはナポリの犯罪組織カモッラとの協力関係も構築し、麻薬と強盗で徐々に名を上げる。
モデナ州の若者はヴェネト・マフィアへの加入によって「さらなる高み」へと至ることができた。最盛期には300人の組員がいたという。
1980年のうちにマニエロは逮捕されるが、まもなく脱獄。1984年にも逮捕されているが、3年後には再び脱獄している。
拘禁生活をよほど嫌ったのか、刑務所内にいたほうが危険と判断したのか。
マニエロは美術の知識を利用した交渉を展開した。
1つは聖アントニオの下顎骨を奪った事件。しかしこの企みからは、何も得られなかったとされている。
そしてもう1つが、モデナ州にあるエステンセ・ギャラリーの襲撃である。
彼が絶賛したベラスケスの絵も、そこにあった。
エステンセ・ギャラリーの襲撃
1992年1月23日の閉館間際、エステンセ・ギャラリーは武装した4人組に制圧された。
奪われたのは絵画5点。
ディエゴ・ベラスケス『フランチェスコ1世の肖像』(1638)
エル・グレコ『モデナの三連祭』(1568)
コレッジョ(本名アントニオ・アレグリ)『母子像』(1517~1518)
フランチェスコ・グアルディ『サンマルコ広場』(?)、『サンジョルジョ・マッジョーレ島』(?)
コレッジョ『母子像』(1517~1518)
発砲することなく、かつ4分以内にギャラリーを支配した洗練された犯行。
これは暗黙のうちに、マフィアの犯行であることを知らしめてもいた。
当初は身代金の要求が来るものと思われていたが、首謀者のマニエロが提示した条件は監視、拘束の緩和であった。
要するに、絵を返す代わりに逮捕はしないでほしいという意味である。
この要求を、当局がどう受け止めたのかはわからない。
マニエロ自身は要求を行ったと明言しているが、対話したとされる検事は要求を受けていないと否定しているため、真相は闇の中だ。
いずれにせよ、このセンセーショナルな事件による効果は長くは続かなかった。
マニエロは1年後の1993年8月に逮捕される。3度目の逮捕だった。
ボスの改心と絵の回収
駆け引きの始まりである。
逮捕されたマニエロは、捜査官に2点の絵を見つけさせた。
墓地に埋葬されていた知らぬ人の墓の中から、エル・グレコ『モデナの三連祭』と、グアルディ『サンマルコ広場』が見つかった。
残り3点はしばらくの間、行方不明のままとなる。
マニエロは逮捕から1年経たないうちに、3度目の脱獄を成功させた。
脱獄に対する熱意もさることながら、それを許してしまう環境にも問題があったと言わざるを得ない。賄賂を受け取った2人の刑務官が手助けしていたのだから。
マニエロは次の手を打つ。
1995年の2月、彼は改心者として捜査当局に手を貸し始めた。
ある犯罪研究者によれば、マニエロはすでに「悔い改めたときに便利な国家との関係」を構築できていたという。
これが本当なら、美術品を利用した交渉も一定の成果を挙げていたと言える。
改心者マニエロは奪われた残り3点の絵の発見に貢献し、さらにヴェネト・マフィアの解体に協力。約300人の逮捕を助けた。
そして彼の刑罰は大幅に軽くなり、最終的に11年の禁固刑と6000万リラの罰金が科された。
「元」ヴェネト・マフィアのその後
マニエロは一定の監視を受けながらも、自由を謳歌していた。
改心者として数々の事件の解決、犯人の逮捕に協力した。彼がいなければ発見できなかった殺人も多かったという。
スイスの口座の預金とヨットを没収されてしまったが───彼にはまだ贅沢に暮らしていけるだけの十分な金がある。
禁固11年が確定した2日後も、マニエロはボローニャのカフェでくつろいでいた。
突然の逮捕であった。
カフェにいるマニエロの元に警察が現れる。「俺は逃げない。どうして連れて行くんだ?」と改心者は戸惑った。
1998年5月2日、フェリーチェ・マニエロ、4度目の逮捕。
突然の逮捕に、反マフィア組織の検察も数々の苦言を呈した。
「マニエロの暴露は法廷で一度も否定されておらず、きわめて信用できるはずだ」
「国家はまず肉を食べてから骨を捨てた。この投げやりな政策はよくない」
それでもベネツィア検察庁は強硬姿勢を崩さず、逃走の危険があったために逮捕したと言い張った。
月日は経ち、2010年8月23日。
マニエロのすべての制限措置が解除され、新たな身分証明とともに彼は自由の身となった。
ただし彼の余生も平穏なものとは言い難い。
ライバルによる報復と噂された娘の自殺、立ち上げた事業の失敗、家庭内暴力による新規の逮捕。
自伝『una storia criminale(犯罪の歴史)』にはプレミア価格が付き、「エンジェル・フェイス」の異名を持つ彼の顔はTシャツにプリントされている。
「元」ヴェネト・マフィアを取り巻く環境、そして本人の内面にも、まだくすぶるものが残っているようだ。
あとがき
本文中に書けなかったことの1つが、ヴェネト州のマフィア、「マラ・デル・ブレンタ」の最近の動向についてです。
体形的な知識を持っていない&イタリア語文献のみで情報の整理に時間がかかるので、今回は扱わないことにしました。
ただし個人的には気になる事でもあるので、ここで簡単に触れておこうと思います。
ボス、フェリーチェ・マニエロを失ったマラ・デル・ブレンタは力を失っていきました。
残党が組織再興のために強盗を頑張ったようですが、2006~2007年に警察による大量検挙で打撃を受け、以降急速に規模を縮小していったようです。
2020年代になると、メンバーの高齢化が進んだことで(どのマフィアもこの傾向はありますが)さらに影響力が低下しています。
老人たちが逮捕を挟みつつ集合離散を繰り返し、麻薬取引や他の犯罪を行う状態となっているのが、「生粋のマラ・デル・ブレンタっ子」の現状と言っても良いかもしれません。
活動的なメンバーに対しては、「マラ・デル・ブレンタ2.0」と皮肉めいた呼び方をすることもあります。
現在、ヴェネト州で覇権争いをしているのはカモッラとンドランゲタであると言われるようになりました。
もっとも、マフィアとしての歴が浅いマラ・デル・ブレンタと他の伝統的組織を比べること自体が酷かもしれません。
急に私自身のことを話してしまいますが、久々に美術館に行ってきました。絵っていいものですね。
あれを額から外してカーペットみたいに巻くなんてことは、私には出来そうにないです。
参考文献
マニエロ、ヴェネト・マフィアに詳しいもの
https://it.wikipedia.org/wiki/Felice_Maniero
https://mafiesottocasa.com/quando-la-mafia-del-brenta-era-di-casa-a-modena/
https://corrieredibologna.corriere.it/bologna/cronaca/22_gennaio_24/modena-trent-anni-clamoroso-colpo-banda-maniero-galleria-estense-e6c10f10-7ce6-11ec-8496-2352c5724bb1.shtml
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1998/05/05/maniero-era-pronto-fuggire.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1998/05/03/arrestato-maniero-boss-del-brenta.html?ref=search
絵の回収や取引に詳しいもの
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1995/02/24/felice-maniero-fa-ritrovare-quadri-rubati.html
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1998/05/22/sconti-di-pena-in-cambio-del-bottino.html?ref=search
https://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1998/05/23/quei-capolavori-rubati-sono-ancora-in-italia.html?ref=search
https://www.gazzettadimodena.it/modena/cronaca/2012/04/01/news/ecco-la-vera-storia-della-famosa-rapina-alla-galleria-estense-1.3761386